シャガールの絵
何かを一所懸命探していると、他の予期しないものが見つかったりする事がある。クレズマって何なんだろう?もっと言ってしまえば音楽って何なんだろう?いつもいろんな答えが見つ
かる。筒単に見つかるときも、苦労して見つけることも。でも本当の核心にはなかなか至らない。
もう一度クラリネットが吹きたかった。それが何よりも私がクレズマ音楽と関わるきっかけに
なった。中学のころから慣れ親しんでいた楽器であるにもかかわらず、音量の小ささとか、何と
なくジャズのバンドでの使いづらさとかそんなことで、私はアルト・サックスのほうを選んでし
まっていて、クラリネットから遠ざかってしまっていた。クラリネットのベルの先から流れ出る
ノスタルジックな響きがたまらなく好きなくせに、そのあまりの甘さゆえに拒否せざるを得なか
ったのかもしれない。そんな時に出会ったのがユダヤの放浪の音楽であるクレズマだった。クレ
ズマとの出会いははっきり言って唐突だった。一九八九年頃だったと思う。ニューヨークのタワ
ーレコードのエスニックのコーナーでアラブ系のライとかその辺の音楽を探していた。すると、
そのとなりの棚で、とても民族音楽とは思えないダサいジャケットのレコードを一枚発見したの
だ。ジャケットには赤い複葉機の前で楽器を持った四人の男と一人の女の写真。私にはそのレコ
ードがどこの国の音楽かも分からなかったのだが、手に持っている楽器が気になってそれを買っ
て帰ってきた。バンジョー、チューバ、アコーディオン、ヴァイオリンそしてクラリネット。何
だろう?いったいこれは。私はクラリネットを使った音楽はクラシックとジヤズの他にはトル
コの音楽とポルカぐらいしか知らなかった。たぶんこれはポルカの一種なのだろう。日本に帰り、
レコードに針を落としてみて、私はその哀愁を帯びたメロディー、親しみやすいジンタにも似た
リズム、絶妙なクラリネットの響き、そういったものにすぐ夢中になった。しかし私の、「なん
だろう?」の疑間は、一層膨らむばかりである。何曲かはアラブっぼいような気がするが、ロシ
ア民謡みたいにも間こえてくる。いや聞きようによってはデキシーの様にも聞こえるし、確かに
ポルカみたいなところもあり、フランスの古い民謡みたいなのもある。歌の言葉は何だかドイツ
語っぼい。私の記憶の中で一番近いのは、昔、子供のころ好きだったヴィレッジ・ストンパーズ
の「ワシントン広場の夜は更けて」という曲だった。 それが実は『クレズマ』という種類のユダヤの民族音楽だと知ったのは、しばらくして来日したユダヤ人の友人ネッド・ローゼンバーグが、たまたま私の「歌舞音曲」という曲を聞いて、「おいおい、おまえクレズマまで演り出したのか?」と尋ねたことからだった。「なんだい、それは?」というところから私の『クレズマ事初め』が始まる。別
に私はその曲を意識的に作っ た訳ではなかったのだが、ポルカ調のリズムと、単調と長調が交互に出てくる形式がそのままクレズ
マの特徴に当てはまっていたようだった。国を持たずに放浪していた民は、何もジプシーだけで
はなかった。ユダヤの民もヨーロッパ中、彷徨い歩き、そしてクレズマの音楽家たちは町から町
へ流れては同胞の結婚式などに呼ばれ演奏していたらしいのだ。トルコ、ギリシャ、東欧、ロシア、全ての音楽の要素がその中に入っていたとしても何の不思議もない。ドイツ語のように聞こ
えた言葉はイーディッシユというユダヤの共通語だった。私は俄然この音楽に興味を持った。ど
うもこの音楽がジャズの原点にも影響を及ぼしている気がする、ということも一つの理由になっ
た。ジャズがアフリカ黒人の音楽を起源として、アメリカに来て西洋音楽と出会い、ゴスペル、
ブルースなどと発展してきてジャズに至る、と一般に言われてきてはいたが、その西洋音楽、とは一体どの音楽を指すのか、はなはだ曖味な気がしていた。おそらくそれはキリスト教会音楽、
スコットランド、アイルランド民謡、クラシック音楽あたりなのだろう、とは思っていたが、ジ
ャズにおけるエスニックなフィーリング、集団即興、特にクラリネットに見られる超絶的な技法、
などには確実にクレズマの影響がある、と思えてしまったのだ。少なくともジャズの誕生に関わ
る何人かの親の内の一人には違いない。いや、これは誤解かもしれない。しかし誤解から何か新
しいものが生まれることも世の中には数多くあるし、私如きが間違った解釈をしたとしても大勢
に影響はないさ。そうやって無責任に推理していくと色々面白いことを発見していく。例えば、
ベニー・グッドマンはユダヤ人だった。彼の超絶技巧と言ってもよいクラリネットのテクニック
はどこから生まれたのだろうか?彼の親は彼を本当はクレズマ奏者として育てようとしていた
のではなかろうか?事実、彼の有名な曲の中にも古いクレズマの曲が使われている。うん、グ
ッドマンはクレズマ奏者に違いない。ミュージカルについてはどうなのだろう?イーディッシ
ュ・シアターの影響はないのだろうか?ジャズにも大きな影響を与えたガーシュインやバーン
スタインは…等々。でも、実際に演ってみないと解らないかもしれない…。
現実にクラリネットを持って、クレズマのバンドを演るようになったのはそれから大分あとの
話になる。一九九二年一二月それは誕生した。後のベツニ・ナンモ・クレズマがそれだ。このバ
ンドは野田茂則君の集めてくれたメンバーが素晴らしくて、一回限りの演奏になるはずが、いま
だにず−っと続いている。最初のころはクレズマティックスや、コンサバトリー・クレズマ・バ
ンドの丸コピーなんかで演っていたのだが、だんだん独自のアレンジで演奏するようになった。
この一八人からなるバンドは、それぞれが別々な自分自身のクレズマ観を持っている。しかもユ
ダヤの伝統的なことなど何も判っていない日本人たちだけで作っているのだから、逆に相当勝手
な解釈ができる訳で、もしかすると世界で一番面白い、ま、一番バカバカしいという説もありますが、クレズマ・バンドかもしれない。自分で言うのも何だが、アメリカ、ヨーロッパでもかな
り評価されるようになってきた。勘違いも、また楽し、と思い始めていた。
去年の秋に、たまたまニューヨークに行った。少しクレズマのことが知りたくて、ジューイッ
シュ・ミュージアムに行ってみようと町へ出た。セントラル・パークの東、グッゲンハイム美術
館のすぐ傍に目的のジューイッシュ・ミュージアムはあった。アメリカにおけるユダヤ人の歴史、
ホロコースト、現代ジューイッシュ・アーティストの作品…。私は教科書を一枚一枚めくって
いくように、淡々とそれらを見て歩いた。階段で二階に上がり少し奥に歩いた所で、シャガール
展が開かれていた。この展覧会があることは知っていた。しかし正直言って、これが今日のメイ
ンの目的ではない。私にはシャガールとジューイッシュというものがそれほど関係深く思えては
いなかった。シャガールは好きだ。でも別に今日彼の絵を見なくても良かったし、入場料が高か
ったらケチな私は足を踏み入れなかっただろう。さいわいシャガール展の料金はミュージアムの
入場料にもう含まれていた。室内は美術館というには少々狭く、光は決して暗くはないのにその
場は何か冬のロシアを思わせるように、しんと冷たい空気に覆われていた。そしてシャガールの
絵は、今まで何度も画集や、美術館で見ていたはずの絵であるにもかかわらず、全く違うものだ
った。確かに初めて見た絵もある。しかし大半は見慣れた作品の筈だ。どう違うかと言えば、そ
こにあったシャガールこそが、クレズマそのものだったのだ。どれもがユダヤの村、ゲットーで
の生活の様子を語りかけてきた。ユダヤの結婚式、空に浮かぶヴァイオリン弾き、村の雪景色や
農作業、古老のラビの肖像、という具体的なものはもちろん、恋人同士のキスや、大きな牛の目
までが、全てが私に、まぎれもないユダヤの文化として語りかけているように思えた。そこに在
るものは、以前そう思い込んでいたヨーロッパのロマンチックな夢や美しい田園風景ではなく、
貧しく、虐げられ続けたユダヤ人達の世界であり、その彼等のささやかな、しかし美しい夢であ
り、歌だった。そうか、これがクレズマなんだ。今まで向こうから一言も喋ってくれなかったク
レズマが、シャガールの絵を通してぼつりぼつりと身の上話をし始めてくれた。どうにも食い込
まなくてふらふらしていたネジが、なにかネジ回し一回転分だけ頭の中の木に食い込んだような
感じがした。私は子供の頃この村に育ったような懐かしさまで覚えてしまった。
それから私の演奏するクレズマがどう変わったかって?これが驚くほど…、いや全然変わ
っていません。勘違いは勘違いで良いのです。私はクレズマという音楽を借りて、結局自分の音
楽を演っているのですから。でもいつか、何かの間違いで私の演奏の中にシャガールがふっと現
れるかもしれません。音楽が何なのか、自分の生きる意味が何なのか、そんなことは最後まで分
からないかもしれません。しかしその過程で出会える様々なもの、新しい発見などを楽しんで生
きて行くことはできるのです。
(−九九八年書き下ろし)